「内田樹の研究室」というブログの存在は以前から知っていましたが,今日初めて読みました.そして深く感銘を受けた次第です.論文のあり方,博士号の意味を教えられたと共に,改めて考えさせられました.自分への戒めも兼ねて,以下に該当箇所を引用させていただきたいと思います.このブログでは珍しくかなり長い引用ですが,僕にとっては意味のある長い引用です.なお,読みやすいように原文にはない改行を勝手に入れさせていただきました.
若い研究者たちへ::内田樹の研究室
それは「学術の本質は対話性だ」ということである。学術論文は査読者に差し出すものではない。ほとんどの研究者はそう考えているが、私はそう考えない。研究というのは、自分の「後から」同じ主題について考究することになる「いまだ存在しない研究者」のために里程標を打つことである。極論すれば、その論文を読んだことによって、はげしく知的興奮をかきたてられ、同じ主題について「自分もまた一生かけて研究したい」と思うような若い世代を創り出すことである。
研究の本質は、「すでに存在するものに基づいて査定されること」ではなく「いまだ存在せざるものを創造すること」なのである。そういうマインドセットを決めれば、どういうふうに書けばいいのかということはおのずからわかってくる。自分が何をしようとしているのか、どうしてその学的主題の選択には必然性があるのか、それを非専門家にも納得がゆくように説明するところからまず話は始まらなければならない。これが最初の「挨拶」である。それに続いて、当該主題についてのこれまで積み上げられてきた業績についての「表敬」が行われる。
当然のことながら、学統というのは「知的贈りものの次世代への継承」というダイナミックな歴程そのものだからである。自分が知的なリソースの贈り手でありうるのは、自分もまた先行する研究者たちから豊かな贈りものを受けとったからである。先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。先行研究がどれほど「時代遅れ」に見えようとも「短見」に映ろうとも、その先行研究があったからこそ、どういう知見が「時代遅れ」であり「短見」であるかが後続世代に明らかにされたのである。
研究史外観や先行研究批判というのは、「こんにちは」のあとに、「ひさしくご無礼しておりましたが、今日は近くまで参りましたので・・・」とか「先般はまことに結構なものを頂きまして、今日はその御礼に・・・」とか続けるのとまったく同じことである。自分のいまの仕事はいつだってある「続きもの」のなかの一こまである。誰かが私をインスパイアしたのである。その消息について論及するのが先行研究批判である。このふたつの挨拶ができたら「博士」合格である。私はそう考えている。
今の自分の力量では,上記文章が机上の理想論に思えるのですが,研究者としてこの先やっていくなら,恐らく現実論として受け止めることができるように自分を鍛え,実践していかなければならない事なのだと思います.現在査読中の僕の論文も,1本の論文としては閉じているわけですが,研究としては『「続きもの」のなかの一こま』に過ぎないので,研究として完結した内容にまとめ上げる事は不可能なのです.手元にあるデータを最大限に有効利用し,論文を執筆しなければならないことは分かっていますが,どうしても議論できない部分は出てきます.そこを査読者に突っ込まれても「今後の課題として取り組みたいと考えます」みたいな回答しかできないのですが,「それでは論文にならない」みたいなことを言われるので困ってしまいます.議論できない箇所の他の部分で,論文に値する結果と考察があると思うのですけどね・・・.以上,ささやかな愚痴でした.黙って自分の力を磨きます・・・.
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