水の沸点が100度であることを我々は常識として認識していますが,実は非常に限定された物理現象であると思った次第です.例えば「水」に不純物が入ったら沸点は変わりますし,気圧が低くなれば水の沸点は100度未満になります.ということは,富士山の山頂やネパール辺りの高地においては「熱湯」の概念も変化するのです.我々の常識では「熱湯=100度」ですが,高地ではそれが成り立たない.「熱湯を注いでください」と記述があるカップラーメンの類は,高地においては成り立たない商品なのです.水の沸点は絶対的なものですが,こう考えると相対的な要素も多分に含んでいるのだと感じます.
「沸点」は何も水やその他の液体にのみ使われる用語ではありません.例えば人間の興味や笑いや興奮の沸点.Aさんは小梅太夫で爆笑しても,Bさんは爆笑どころか嫌悪感を覚えるとか,Aさんはサッカーワールドカップに連夜大興奮しても,Bさんは見向きもしないとか,そういったことが当たり前に起こります.つまり各々の様々な「沸点」には大きなばらつきがあるのです.
ではこの大きなばらつきを含む「沸点」を無理矢理に共通化し,万人に同じ沸点を求めたら一体どうなるでしょうか.恐らく個性というばらつきがなくなります.偉い人が国民全員の人権を掌握している国とか,表現の自由が認められない検閲大好き国家とか,全員に同じレベルで同じ内容の教育を施している国とかが今でも存在しますが,その先に待っているものが望まれた未来であるか否かは大いに疑問が残るところです.そういった意味では,最近のつまらない(と僕は思う)お笑いは,実はいいことなのだと思います.よくも悪くもテレビに登場する芸人の数だけは多いですから,それだけ選択肢が増えます.1つのチャンネル内で繰り広げられる多チャンネル化現象.その中から自分の沸点に合致する芸人を見つければいいのです.見つけられない場合も多々ありますが,やはりこれは水の沸点とは違い,自分の中で確立された絶対的な沸点であるためだと思います.「この芸人はあの芸人に比べたら面白い(あるいはつまらない)」という見方もしますが,別に点数をつけて評価している審査員ではないので,そのような自分の中における相対的な沸点に基づいた見方はあまり意味がありません.少なくともお笑いに限っては,僕の沸点は常に100度なのです.
というわけで(?),結果的によく分からなくなったどうでもいい僕の沸点論を展開したことですし,今月返送予定の査読者へのコメント対応(論文2本分)と,それに伴う再実験を再開したいと思います.世間は今夜行われる日本対オーストラリア戦で持ちきりですね.いいことです.愛国心教育などせずとも我々には愛国心があるという証拠です.みんな見ればいいと思います.って僕も見ますけどね.日本人ですから.コメント対応(改稿)と再実験は明日から再開します.あ,その前にゼミです.
writeback message: Ready to post a comment.