音楽には「コピー」と「カヴァー」があります.コピーとは,例えばアマチュアがプロの音楽を忠実に真似することを言います(もちろんアマ同士,プロ同士でも可).目的は主に歌やギター(楽器)の練習のためです.一方のカヴァーは,ある程度対等の力関係にある人たちが,他人の作品を自分流に演奏したり歌い上げたりすることです.コピーの場合は,基本的にコピーした人の「自分流」な部分が入ってしまってはダメなので,オリジナリティはありません(コピー機でコピーした書類に,コピー機独自の変更が加わっていたらマズイ).しかしカヴァーの場合は,曲や歌詞は他人によるものだけど,歌い方にオリジナリティが入っているので,一つの作品として成り立つのです.いわゆる「カヴァーアルバム」のような物は「簡単に金を稼ぐやり方でずるい」という見方もあるようですが,僕はあって良いと思っています.でもAというアーティストが,カラオケ店でBというアーティストの曲を歌っているのを聴かされているようなレベルのカヴァーなら,存在価値は無いとも思っています.
世の中には様々なクリエイティブな職業がありますが,カヴァーというやり方は音楽業界でしか成り立たない,非常に特殊なものであると思います.例えば絵画や広告の世界にカヴァーは成り立つでしょうか.糸井重里さんが考えたキャッチコピーがいくら素晴らしいからと言って,まずそれをコピーした広告を制作し,背景色やデザインだけを変えて「カヴァーした」と世に発表して通用するでしょうか.また研究職に絶対必要な論文に,カヴァーという考え方を持ち込むことはできるでしょうか.ある研究者の論文の内容をすべてコピーし(目的も結果もすべて同じ),自分流の文章でそれを表現したからといって1本の論文として認められ,自分の業績にカウントされるでしょうか.そんなことは絶対にあり得ないのです.「この内容の論文はすでに発表されているから,あなたが再び同じ事をやるのは無意味ですよ」とエディターに言われておしまいです(査読前の段階で門前払い).
逆に,研究畑でカヴァーが成り立ったとしたらどれだけ楽かと思います.研究者の評価は人格でも人望でもなく「論文数」で決めつけられる昨今です.しかも論文の掲載雑誌なんてあまり関係なくて,要は「数」なのです(ネイチャーでも和文雑誌でも1本は1本というカウント.研究の事を知らない事務屋さんによって人事が決定されるならなおのこと).多くの研究者は,論文数稼ぎのために過去の論文をカヴァーしまくるでしょう.場合によっては自分が過去に発表した論文を「セルフカバー」したり「リミックス」したりして発表するかもしれません.同志が集まり,お世話になった大先生の「トリビュートアルバム(という名の特集号)」を制作・創刊することもあり得ます(もちろんそれも業績に数えられる).つまり,みんな過去を振り返ってばかりの状態になるのです.だからそこに科学の進歩なんて見込めません.
音楽の世界において,カヴァーが認められているのに新しい作品もどんどん生まれるのはなぜでしょうか.研究の世界と違って作品数でその人の価値が決められるわけではないし,作品作成から発表までの間にそれほど厳しい審査は無いし,ある程度既存の作品と似ていても特に問題にならないラフなところがあったりするからだと思ったのですが,これが当たっているかはよく分かりません.でも一つだけ言えることは,クリエイティブな業界の中で,音楽業界は特に”ゆるい縛り”の基に成立している世界だと言うことです.この”ゆるさ”があるからこそ発展するものがあります.もしゆるくなかったら,ただでさえつまらないここ数年のJ-POPは,輪をかけて退屈なものになっているに違いありません(作り手の縛りは緩いのに,お客側の縛りは変な著作権保護団体によりガチガチに縛られているため,これが原因で発展しないものがあるのも事実です).
きっと音楽は「紙(詞曲)」と「音(演奏)」の2重なので、カバーがなりたつのでしょうね。
"書"の世界も、同じ漢詩を揮毫してもそれぞれ別の掛け軸として通用しますね。
論文も「内容」と「自作フォント」で評価されればカバーもできるかも。(笑)
本題の
>お客側の縛りは変な著作権保護団体によりガチガチに縛られている
から逸れてすみません。
「書」の世界のことは知りませんでした.そういった文化があるんですね.でもやっぱりカヴァーが成り立つ世界というのは少数派だと思います.羨ましくもあり,ほんの少しだけ「んーどうなんだろう・・・」とも思ってみたりw.
このエントリの本題は,別に著作権保護団体の批判ではないので(批判・避難は存分にしたいけどw),気にしないでくださいね.
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